感想置き場

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すばらしい新世界(オルダス・ハクスリー)を読みました

すばらしい新世界を読みました。色々と思うところがあったので備忘録も兼ねて感想。ほんとすごい本だと思います。これが1932年に書かれたなんて信じられない。

◆きっかけ

まず、この本を手に取ったきっかけは、サピエンス全史(ユヴァル・ノア・ハラリ)において触れられていたからでした。「幸せ」について論じられていたあたりで、生物学的な幸福は脳内におけるホルモンとかの分泌によって左右されるだけなので、それを完全に制御できるならば、完全な幸福ということもできるかもしれない。みたいな話があったんですけど、そこで引き合いに出されていたのがこの本でした。もともとSFとかディストピア小説には興味があったのに、この本は全く知りませんでした。

◆この本について

1932年に発表された、イギリスの作家オルダス・ハクスリーによって書かれたディストピア小説です。1932年って、満州国が樹立したり、ナチ党が議会進出したりした年なのですが(調べました)、そんな昔に書かれたとは思えない、昔の人の考え方だ~みたいな香りを一切感じさせない、現代でも完全に通用する内容でした。恐ろしい。

◆感想

全体主義と個人(自由)主義について

まず思ったのが、こう、管理社会・・全体主義・・って、人間の自由が奪われた酷い世界だ!監視社会だ!それが真の幸福なのか!?みたいな印象を(私は)抱きがちで、この本も、全体主義に対して警鐘を鳴らす内容なのかな~個人主義の現代に生きててよかった!と思えるような読後感だろうな、と思って読み始めたんですね。で、最初は、赤ん坊を予め階級を決めて低身長にしたりだとか、予めつくことが決まっている職業において幸せを感じられるようにしこまれていたりだとか、そういう描写に、ああ自由が奪われている、人間が自然に手を入れるなんておこがましい、みたいな義憤を少しは感じました。加えて、新しい服を買うことはいいことって仕込まれて、消費を無意識にいいことだと刷り込まれて、資本主義・消費主義を自動で回してくれる歯車として仕立て上げられるというのは、今の私達も似たような状況だなとか思いました。でも、それぞれの階級の人々の立場に立ってものを見たときに、なにか不幸な事があるか?って考えたら、一切ないんですよね。だって、そう条件づけられているから。いくら単純作業をしても、それが幸せだって思えるように予め仕込まれているので、本人は疑いの余地もなく幸せに一生を終えるんです。これに対して、その人がなにに対して幸せを感じるのかとか、その人の一生を他の誰かが勝手に決めるなんて、そんなのは許されないって、たしかに思いますよ。でも、本の後半にあったように、人々がそれぞれ勝手に何かを実行し始めたら、秩序が崩壊するってのも、確かなんだと思うんです。(まあ、極端な話ですが)これは完全に私の体感で個人的な意見ですが、すくなくとも日本においては、戦争があったあたりは、全体主義的な考えが善とされることが多かったと思いますが、現代はその反動なのか、極端に個人主義的な考えが善とされることが増えている感じがします。国のため、から、家族のため、になって、それから今は主語がほとんど個人ですよね。で、そうなると、やっぱり諍いは増えます。互いの意見の違いが許されるんだから、そこで衝突が起きてしまうのは必然ですよね。最近は個人主義が行き過ぎて、皆自分の都合だけしか考えなくなり、それを押し付け合うことが増えたなあと思います。なので、この本に書かれている全体主義的な社会に対して、これを頭ごなしに否定はできないなあと感じました。だって、この本には根っからの悪人っていません。この社会を支配して上の階級の人達が下の階級の人達にはない特別な幸せを享受できているのかというとそうではない(多分皆ソーマで同じ幸福を味わえている)し、世界統制官の人は他人の幸福に仕えていると話していますが、その通りで、だれかが誰かを虐げたり搾取したり犠牲になったりとか全然ないんですよね。(たまのエラーとかはあるみたいですけども)まあでも一つ思うのは、私がこの本の全体主義に対して結構肯定的に思えるのは、私がこれまで生きてきた現代が、個人主義で、そこの悪さを感じることが多かったから、つまり全体主義の悪さをあまり実感したことがないからなのかなとは思いました。この本が書かれたのは1932年のイギリスです。私は歴史に詳しくないので的はずれなことを言っているかもしれませんが、少なくとも現代よりはもっと全体主義的な社会だったと思います。例えば、資本主義の成長によって、労働者の個人の尊厳が奪われていることを風刺した映画である、チャップリンのモダン・タイムスは、1936年の映画です。なので、作者自身の思想がどちらなのかはちょっとわからないですが、少なくとも今よりは全体主義のもとに生きてきた人によって書かれた本であり、この本の全体主義の描写は、全体主義に対する皮肉というか警鐘を含んでいるんじゃないかなと思うんです。作中にも、バーナードのセリフやジョンのセリフから、個人や自由を求める考え方が提示されていますし、最後の描写も、全体主義に殺されたって感じなのかなって私は思いました。で、私が生きてきた個人主義の時代は、昔の全体主義の時代を乗り越えたあとにあるものです。なので、全体主義の窮屈な時代に書かれた、全体主義を皮肉った作品を、現代の、全体主義からの反動で個人主義になった今、個人主義の窮屈さが存在している今に、全体主義を皮肉った作品を見ると、その皮肉すらよく見えるというか…(なので、この本を読んで私が学んだことは、全体主義の怖さというよりかは、どちらの主義だったとしてもいい点と悪い点があって、片方にいるともう片方がよく見えてしまいがちだってことなのかなと思いました。

・条件づけについて

これはかなり恐ろしい、かつ的確な発想だと思いました。初めの方に出てくる、経済活動を促す消費行動を生み出すために行われる条件づけ(自然を嫌うとか、スポーツを好むとか、旅行を好むとか、服は繕うのではなく新しいものを買わないとおかしいとか)は、結構わかりやすいですよね。現代では、主に広告で仕込まれることが多いのかなと思います。新しい味を試そう、旅行に行こう、トレンドの服を着よう、などなど・・・加えて、流行る「考え方」、例えば推しに貢ごう、経済回そうとかってのも、穿った見方をしてしまえば、結果的には消費行動を促す考え方だったりしますね。(良い悪いの話ではありません)。こんな感じで、もう現代の時点ですでに、自分の意志で気持ちよく選んだと感じながら、無意識に経済の歯車を回してくれるように、色んなところで仕込まれているんだと思いました。ただ、別に、これにたいして陰謀だ!みたいに思っているわけではありませんし、反抗しようとしたいわけでもなく、ただ、よく出来てるな~と感じました。私達のなにかものを買うことが楽しいっていう考え方は、自然にそうなったのではなく、資本主義・消費主義の現代において条件付された結果ともいえますね。何も知らないで生まれたサルは買い物を好きになるなんてことありえませんからね。

条件づけは多岐にわたります。例えば、熱帯で働くように予定されている子供は暑さを好きになるようにされたりしていて、「置かれた場所を好きになる」ように条件づけされます。究極が、道徳。「道徳教育は、どんな場合も、理解を必要としないからね」という恐ろしいセリフがありますが、そんなことない!って完全に反論できるかというとそうでもない気がします。道徳というのは、完全に人間の脳内にしかない、人間の間だけに通用する、ただの概念です。何が良いのか、悪いのか、人間によって決まるものです。現実で確かなことは、生物学的事象だけであって、そこに良いも悪いもなく、意味付けをするのは人間です。だから、道徳って、究極、何も根拠ないし、その時々で一番だれか(みんなか、個人かわかりませんが)にとって都合がいいように人間が秩序だって動けるように仕込まれた考え方なんですよね。だから、この本で道徳が睡眠学習によって仕込まれている光景は、非現実的で、嫌悪感があり、自由意志を奪われている感じがしますが、じゃあ現代の私達がこれとどう違うのかっていったら、睡眠学習ではないところは確実に違いますけども、じゃあ道徳を周りの人や授業で教えてもらってるっていう手段が違うだけで、それ以外はほとんど違わないように見えます。

人が何かを信じるのは、それを信じるように条件づけられているからだ、という世界統制官のセリフがあります。人間の、判定し、欲求し、決断する心は、すべて暗示、すなわち条件付から刷り込まれた暗示からスタートしているという所長のセリフが冒頭にあります。これは、この本の中だけでしょ~って思ってしまうかもしれませんが、私はそんなことない、今でも、というかこれまでもずっとそうだって思います。ここで、大事なのは、条件付されていることを自覚することであって、条件付けを悪だと判定して反抗したりすることではないと私は思います。だって、条件付が全く無かったら、わたしたちはただの動物です。知らない人々と協力して動けるのは、条件付け(共通の価値観や道徳観)があるからです。別に、誰かの悪意があって植え付けられた訳では無いと思います。上の消費行動を促す条件づけだって、それで社会が回るようにしているわけですからね。(まあ、資本主義だと、富裕層に資本が集中しちゃうってのはあるかもですが・・・)なので、自分の中にある、ありとあらゆる価値観について、その中に全く疑いの余地のない、自明の公理であるものは一つもない事を自覚して、常に俯瞰して問い続けることが大事なのかな、と思いました。…まあ、この、問い続けること…進化が大事だって考え方すら、条件づけかもしれませんけどね~!!この考え方、永遠にメタ視点で引いて考えていくと終わらないので恐ろしいです。この本では、ジョンは全く条件づけされていない(少なくともセンターでは)人として出てきますけども、文明的で贅沢であることが悪であるとか、苦労礼賛的な考えだとか、これらの考え方は、センターでは条件づけされていませんけども、ある種保護区での生活による条件づけとも言える気がしますよね。楽するのが良くないっていう考え方は、私にも実感がありますが、これって、みんながみんな楽したら社会回らないから、楽するのが良くないって考え方が条件づけされているのかもしれませんね。

自由意志って、あるのかな?自分の意志で選んだことって、実は殆どないのかも。

・ソーマについて

キリスト教とアルコールの利点だけを取り出して、欠点を排除したのがこれだ」っていう凄まじく的確で衝撃的な表現をされるソーマ。(まあ、取りすぎると寿命が縮む描写がありましたが)この薬、もし本当に実現されたとしたら、これを服用するのってありなのかなしなのか、人によってかなり意見分かれると思います…ジョンは反発してましたが、楽して幸せになるのがダメって考え方自体が、上にも書きましたがそもそも仕込まれた考え方だっていう考え方もできますしね…

・幸せ

社会の不安定なくして、悲劇は作れない。戦争があるからこそ英雄譚が光る。芸術は不安定を生むので、なくなり、娯楽だけが残った。(考えないでいいものだけが残る)しあわせこそが、絶対善だという考えのもとこのように社会が作り変えられたという価値観が語られます。ここまで極端には行かないかもしれませんが、でも、現代のワタシたちが求める「幸せ」を多くしていくのを突き詰めていくと、この方向に近づいていく気はするので、果たしてこうなるのを望んでいるのか?幸せを求めるべきなのか、そもそも幸せとは何なのか、っていうか、サピエンス全史でもありましたが、それよりももう一歩手前の、何を求めるのか?ということを考えねばなあと思いました。

・フォード教

T字を切るとか、オーマイゴットがフォードだったりとか、かなりウケるんですけど、当時からこれOKだったんですかね?すごいな。日本ではあんまりフォードって聞かないので、ここは日本人なことをくやみました。産業や消費のきっかけになった人が宗教的に祀られているというのは冗談みたいで滑稽に見えますが、現代も資本主義や消費主義の神話に基づいて回っているともいえるんじゃないかなと思います。

・その他

スポーツについて、「新しい競技は、原稿の最も複雑な競技と同等以上の道具を必要とすると証明されない限り、世界統制官の承認は得られない」というシーンがあります。道具使わないとお金回らないからです。これは完全に資本主義の考え方で、現代では、スポーツではあんまりないかもですが、例えば科学研究テーマとかでは、お金を出して投資してもらえるのは、金になるかどうかが一番大事だし、商品開発だってぶっちゃけ金にならなきゃ世にはほぼ出ないし…現代でもほぼ全く同じ考え方で回ってるのに、本の描写だと大げさに見えるのが不思議だなと感じました。

リンダが、自分のやっていたことや化学について全然知らなかった描写がありましたが、これについては、私達は世の中について知ろうと思えば知れるんだから、思考停止しないで知る努力をすることを心がけたいなと思いました。でもこれも条件付け…って言ったらきりがないのでやめます。笑

あとシェイクスピアの引用が多くて単純に読みづらかったです。英語圏の人が読むときってどんな感覚なんでしょうね?和歌の引用が出てくる感じ?