感想置き場

いろいろと感想を残します

正欲(朝井リョウ)を読みました

本について

去年映画化され話題だった、というのを、今年の頭に知りました(情報が遅い)。何物などでも知られる朝井リョウさんの作品です。

きっかけ

本屋で昨年売り上げ一位!などで話題作として取り上げられているのを今年の頭に見かけて知ったのですが、普段読まないジャンルもいうこともあり、その時は特別興味も湧かず、手に取りはしませんでした。その後、機会があり、友人と、読んだことのない本を互いに読んで感想を言おう会というのを企画し、その時この本が話題に出て、ちょうどいいし読んでみよう!となったのがきっかけです。

感想

前情報ほぼなしで読み始めて、面白くて二日で読んでしまいました。本当に色々と考えさせられまくりました。普段フィクションに逃げているので、こんなに身近な問題を考えさせられることはなく、読んでるあいだ、いい意味ですごいもやもやムカムカし、作者に気持ちを見透かされているようでなんか意地悪〜!!悔しい!!って勝手に思ってました。笑寛容と不寛容のパラドクスとか、いろいろ思い出したな。

私が受け取ったメッセージ

初めにもう結論からいくと、この本から私が受け取ったメッセージは、

•想像力を働かせる。
•しかしそれでも、結局は自分は自分の分かる単位でしか分かることはできないことを理解する。この世の中には自分が理解できないこと、自分の想像の及ばないところがあることを自覚する。

•自分が正しいと思っていることが他人にとっては正しくないことがいくらでもあり、そもそも絶対的正しさと言うのは存在しないことを理解する。

•マジョリティだからといって正しいわけでもなく、同じようにマイノリティだからといって正しいわけではない。

•自分が正しくありたいという欲求があることを自覚する。

•さらに言えば、自分ですら自分のことがわからないこともある。例えば、自分の欲求の理由だったり、何を受け入れられて何を受け入れられないのか、とか。

•他人について、その人のことを分かったつもりになることが一番傲慢。対話しないで想像だけで決めつける場合はもちろん、それだけでなく、対話する場合でも、結局その人の脳内を直接覗くことはできず、その人の口から出た言葉を自分で解釈するしか理解する術はないため、真の意味で理解することは不可能である。

•どんな理由があれ、他人に迷惑をかけるのは良くない。苦しみは何かしらの行為を正当化する理由にはならない。

•そのような観点では、価値観の近い人々と小さいグループを作り、閉鎖性と対等性を保ったコミュニティを築くのが、効率的には一番良いかもしれない。

•ただ、だからと言って、初めから価値観の違う人の間で歩み寄るのを諦めてしまうのは、寂しい。人はやはり、それがどんな形であれ、誰かとつながっていたいものである。

•だから、大切なのは、互いに互いを決めつけずに、対話をすること。傷つくこともあるかもしれないけど、何もしなければ、何も変わらない。変えられない。価値観が違うからといって、絶対に分かり合えないことが一生確定してしまうわけではなく、自分も他人も、何事も変わる可能性はある。100点の回答は出ないかもしれないけど、何かが変わるかもしれない。

かな、と感じました。

下記、なんとなく人々のグループを三つに分けて記載。

•寺井家

パパが結構分からずやで上手くいかなかった感じが終始ありましたが、パパに足りなかったのは、まず一つは想像力と、対話する姿勢だと思います。これは終始示唆されていますよね。家族との間でも、仕事の時でも。あと、分からないことがあることを認める勇気。自分が信じているものは別の視点から見た時また違う意味を持つことがあり、常に正しいものは存在しないということを受け入れる勇気がなかったんじゃないかなと思います。佳道のシーンでもありますが、人はみんな不安で、自分が"合っている"側でいることを望む、という話がありますが、パパも不安だったんだと思います。これまでの自分の考え方が全てにおいてはこれまでのように適用できなくなってきた中で、それに対する自分のアイデンティティの不安を、新しいもの、分からないものを理解しようとせず拒絶することで確立しようとしてしまったんじゃないかな。自分が正しいと思っていたこと、自分の価値観の根底、アイデンティティが崩れるのは誰だって怖いですからね。後もうひとつ思ったのは、これは難しいところですが、息子のためを思って、っていう行動が、自分の責任と子供の責任を切り分けられていないところがあるかなと感じました。子供では分からないことや、できないことはたくさんあるので、それを教えてあげるのはよいのですが、それを受け取った後、どう行動するのかは、子供自身の選択であり、責任です。パパは、そこの選択についても、自分の責任であるかのように感じている気がします。前、嫌われる勇気で書いてあった、"相手を水辺に連れて行ったのは私だが、その後で水を飲むかどうかは相手次第である"みたいな話で、そこで相手が水を飲むか飲まないかは相手の責任であり、例えばそこで喉が渇いて死んでしまったとしても、飲まなかったのは相手の責任で、連れて行った自分は連れて行くところまでしか責任はない、という考え方。この話は極論、親が子供に全てを教えて、いつでも援助ができる姿勢を見せている状態で、それでも子供が非行に走ってしまった場合は、子供の行動は子供自身の責任である、ということになります。随分突き放した考え方だと感じるところもありますが、子供を守るということはある種子供自身の行動を制限することであり、程度が過ぎると子供の意思が奪われてしまいます。ただもちろん、0/1ではなく、戦火飛び交う中では流石に子供は勝手に出歩かず大人が子供を守るのが正しいと思います。ただ、これが将来の進路とかになると、話が難しくなってきますよね。子供には辛い思いをして欲しくない、でも子供自身の選択を尊重はしたい。ここの板挟みはなかなか辛いところです。辛い思いをして欲しくない、という感情すら、他人への自分の価値観の押し付けだと言われて仕舞えばそれまでなのですが、それではあまりにもドライすぎるとも思います。パパは、自分の価値観の中に子供の行動を押し込めてしまい、自分のいいと思う行動のみを許すという、子供のためを思ってという皮を被った、自分の価値観の押し付けをしている面はかなりあると思います。でも、子供に辛い思いをして欲しくないという気持ちも、嘘ではなかったと思います。ただ、真の意味で相手を思いやるならば、相手の選択で相手自身が辛い思いをしているとき、それは自分の責任ではない、と、ある種切り離す考え方も必要だったのかもしれないなと思いました。この時必要なのは、自分はいつでも相手を援助できる用意があると意思を示すことなんだと思います。

個人的には結構読んでる時はパパに同情しておりまして、ママは息子のやりたいという気持ちや行動を制限せずやらせてあげていたのはいいと思うんですが、若干無責任感がある感じがしました。あ〜、でも、上に書いた、親と子供の責任の切り分けの話を実践すると、こうなるのかもしれないか.... ただ、youtubeが逃避だっていうパパの意見も一理はあると思うので、ママはいい面だけじゃなくて現実視点も息子に教えてあげたほうがもっと良かったかなぁ。

あと、同僚の越川が作中随一のいいやつだと思います。救い。いや最後救いにはなれなかったんだけど(涙)越川は自分には全く分からないことがあることを認めつつ、それでもわかろうと努力する、作中の中でもかなり理想な態度をしている気がする。よし香とかと違って、分かったつもりになってないし、自分のわからないものを思考停止で切り捨てようとしないし、なんというか救ってあげられる、私ならわかってあげられる、みたいな自分本位な感じがせず、対等な視点で、私もわかりたい、と歩み寄ろうとしている感じがあるかなー。

•大学の人々

八重子は、個人的に一番心を振り回された子でした。一番初めは、境遇から色々と共感するところがありましたが、ダイバーシティフェスのあたりで、なんか気に入らなくなり、勘違いから自分が大也を助けてあげるんだと突っ走っているところでは完全に大也と同じ気持ちになってしまいました。

ただ、最後の最後、大也と言い争うシーンで、ガラッと印象が変わりました。もちろん、八重子にも、私だけが理解してあげられるという優越感はあったかもしれませんが、それだけでは終わらず、八重子は大也から傷つけられても、突き放されてと、それでも分かり合いたい、力になりたいという気持ちは揺らがず、最後まで対話を諦めませんでした。ああ、私も大也と同じように、八重子を決めつけていたんだな、と自覚させられました。大也と違って、八重子視点の話まであって、私は八重子の境遇を彼よりも知っていたにも関わらず、ここまでそう誤解してたんだから、やっぱり他人のことって本当の意味で理解するのは無理で、分かったつもりになって決めつけるのが一番ダメだな、と思わせられました。

また、八重子も大也も、対話がなければ、お互いに変わらず終わっていたんじゃないかなと思います。この対話がなければ、八重子は、よし香みたいに、相手を誤解したまま、自分の理解の範疇の中だけで決めつけて、救ってあげられるという救世主ヅラを続けていただろうし、大也も、一生この根っこは根っこのままで、枝になることはないんだ、根っこが新しく増えることはないんだって価値観のまま生きて行ったんじゃないかなと。だから、相手を傷つけないようにするのは大事で、閉鎖性を保つのはある面で正しいけど、それでは永遠に歩み寄りはできないし、変化は現れない。だから、こうやって(なるべく傷つかない形があるならそれがいいけど、それでも無理ならこうやって傷つけ合いながらも)対話をするのが、大事なんだなと感じました。なので、ここのシーンで、すぐには和解できなかったものの、二人が自分を曝け出して、ちょっとでも分かり合えそうになって、変わったのはすごく良かったなと思うし、救いだなと感じました。だからこそ、最後が悲しくなるんですけど....(泣)こんなの、大也一生人間不信だよ。少しでも八重子が彼の心を癒す助けになれたらいいのになあ。

対話が大事だと考えると、この話に出てくる全員が、本当は対話すれば分かり合えたかもしれなかったんだと思うとやるせないですね。あと、読み終わったあと、個人的によし香はホント無理だわって思ったけど、そうやって決めつけて対話を諦めるのが本当は良くないんだよね...自分で理想を説きつつ、実践できてない現状に気が滅入ります。

あと、大也が、八重子に、自分のことをそういう目で見てました、性欲がありましたって認めていいんだって言ったシーンも個人的には印象的でした。されてた側からそれを言ってあげるのが、優しいなと。八重子はきっと自分で自分のその部分を、異性からのそういう目が嫌だったから、きっと自分一人では認めづらかっただろうし、受け入れづらかったんだろうなと思います。なんとなく嫌悪する気持ちがあるけど、でも生理現象なんだよな。素直に認めるしかない...

あとダイバーシティフェスは、むかつくところと、でもわかるってところが入り混じって、ものすごく心をかき乱されました。マイノリティを都合よく扱っているというのはものすごく感じましたけど、八重子のいう"繋がり"が全て嘘とも思えなくて。一つ印象的だったのは、普段しないダンスをスペードの人たちにやってもらうっていう案に対して、それこそ多様性の否定ではと大也に言われるシーン。私は普段やったことないことをやるのが好きで、新しくキッカケにもなると思うタイプなので普段してないことを要求されることにそんなに抵抗なくその案を読んでいたため、ああ確かに、自分を否定されたみたいな受け取り方もできるしそう考える人もいるよな、と気づかされました。まあただ、これは、アイデアの発信側にも悪意があるパターンとないパターンと、受け取り手にも悪意があるパターンとないパターンもあるし、一概には言えないよなとも思います。

•水フェチの方々

いろんなフェチありますし、この本では出てこないようなもっとすごいのも知っていましたが、無生物対象はなかなかすぐは察せないので作者の思い通りに誘導されましたね。

最後、勘違いで捕まってしまったのには本当にやるせない気持ちになりました。そもそも法律は、人間の作った"道徳観"という考え方のもと、いろんな考え方を持つ多くの人々で成り立つ社会において、誰かが虐げられないように、嫌な思いをしないように、公平になるように、皆が合意しているルールだと思うんですよね。まああとは、効率よく社会を作って動かして行くためのルールとかもありますし、(勤労とか)そもそも"道徳観"自体が正しいのかという話もありますがそこはちょっと置いといて、ここで言いたいのは、"多くの人"と、"人が嫌な思いをしないように"というところがポイントだなと思っていて。まず、人間の行動単位が、友達や家族といったような、考え方や価値観がある程度共通している少人数単位だった場合って、法律はいらないと思うんですよ。別にわざわざ言わなくても、何をされたら嫌だとか困るとかわかるし。そもそも普段、生活している中で法律を意識することってないですよね。でもこれが、どんどん人が増えて行くと、考え方も価値観も違う人が出てくる。だから、法律があるんだと思うんです。器物損壊や万引きが犯罪になるのは、それをすると傷ついたり困ったりする人がいるから。対等性が保たれていない、合意なしに行為が行われているからです。別に物を壊したらいけないわけではなくて、誰にも許可されていない状態で勝手に物を壊すのがダメなのであり、タダで商品をもらうのがダメなのではなく、許可を得ないで盗んでいるのがダメなのです。児童ポルノはについては、そもそも身体的にも人生経験的にも、性的な行為に対し、子供は大人と対等性がありません。だから、児童に対する性的な行為は許されないのだと思います。なので、児童ポルノは、本人がそうと理解していないのに撮ったり襲ったりするのが一番ダメだと思いますが、その画像をただ持っているだけの人でも、そういう行為につながる可能性がある人物だということだったり、そうやって欲しがる人がいるから撮る奴がいるんだという理屈で、罰されます。

法律には、人の認知や意図を含めることは(ほぼ)できません。行為の結果は他人は観測可能ですので、確実に含められますが、その人がどういう認識や意図でそれをやったのかは、各々の脳内でしか真の意味では理解できず、悪意を持ってやったらダメ、善意だったらOK、みたいにわかりやすくすることはできない。(故に裁判があって、情状酌量とかがあるんだと思います)だから、行為で定義するしかない。

ルールは悪意から人を守るために定義するものなのに、ルールには"悪意"を定義に含めることができずに行動しか定義できない。これが今回の悲劇を生んだ一因なのかなと。子供が水着で遊んでる写真自体は、別に家族が撮って持ってるのは全くもって犯罪ではありませんし、その友人が代わりに取ってあげて思い出として持っておくのも犯罪ではありません。でも、それが例えば偶然ネットに広がっちゃって、それをそういう意図でダウンロードした人がいたら、それは傷つけられる人が出てくるから、よくないと思います。でも、本人が全く預かり知らぬところでやるなら、誰にも迷惑かけてないのではと言われると、それはそうなんだよなという気もあります。どんなものでも性的になりうるしならない人もいる、それを全て規制することはできないから、そういうのが存在することを受け入れてそこでどう生きるかを考えるか、という話が作中にありましたが、"考えること""感じること"を規制することはできないんですよね。

悪意を防ぐため、その行動を切り取って犯罪とした結果、結果的にその行動になっているが、含まれている意図が違った場合もまとめて罰されることになり、本来やりたかった、悪意を防ぐという行為ができないパターンがあるということかな。極論、人を殺すことだって、安楽死を本人に頼まれたのなら犯罪にはならないですしね。

行為だけを切り取って、そこに含まれていた意図を、想像力を働かせずに、自分の理解の範疇に押し込めて、無責任に批判する、というのが、作中のポルノ事件に対する、啓喜や、佳道の上司が取っていた行動なのかなと。

ここまで書いて思ったのは、私は、その場にいる(もし撮影対象がいるなら、その中の人も)誰にも迷惑をかけていない=全員が同じ認識でやっているならば、つまり対等性(相手の合意があり、認識が共通している)、閉鎖性(それを見て不快に思う人もいるだろうし、全ての人と認識を合わせることはできないから、認識が違う人からは認知されないようにすることで、この行為に対して共通の意図をもっている人しかいないようにする)が保たれているなら、いいんじゃないかなというふうに思っています。例えばSMクラブとかはそこが保たれていますよね。アイドルのグラビア写真は、そう撮られたいと思っている子もいるし、そうじゃない子もいるので、この条件はいつでもは成立できないと思う。児童ポルノについては上述したように三次元だったら絶対に被写体の子供とは対等性は保てない(その子は性的に撮られているとその当時から理解することはできない)のでこの状態は実現不可能なので、二次元でやるしかないという理論になるのかなー。

あと、佳道と夏月が真似事をするシーンで、みんな正しい側にいるかが不安だったんだ、と気づくシーンが印象的でした。ここまで、ずっと、マジョリティ側というか、西山修やその周辺、また那須沙保里とかについて、理解できない敵、みたいな印象を受け取っていたのですが、ここで、結局根っこは自分も含めて全員一緒だったんだ、と、これまでの対立構造が崩れた感じがして。だから、佳道も、二人だけで完結するのではなく、人々が不安なのは同じなのだから、倒れないために繋がっていこうという気持ちになれたのかなと思いました。その結果がこれだよ。悲しすぎ。

ただ、この本、意外と性善説に寄っているなという気もする。生まれながらにして人を傷つけること、人に迷惑をかけることが純粋に好きな人って出てきてないですよね。水フェチは、生まれながらにして特に理由もなくそういう人間になっちゃってて、自分たちでも意味がわからない異常者だと思うとも言ってるけど、別にその人たちは道徳観とか倫理観がぶっ壊れてるわけでは全くないし、いじめとかいじりとか価値観の押し付けをする人々も、根本は皆不安なんだ、というふうに包み込んでいる気がしていて。生まれながらにして理屈抜きに人を傷つける人が好きな人がもしいたら、という話はこの本の範疇にはないかなという気がしました。

登場人物たちを振り返ってみると、自分の価値観における正義を振り翳すという点では、その価値観は真逆なものの、啓喜とよし香と西村は共通するところがあり、よくない姿として描かれているように感じました。

八重子は、一時はその立場になるものの、対話を経て、変わりつつある、自分の中の正しいが人によっては正しくない、自分は自分のことしか分かることができないことを理解し、というふうに描かれているように感じました。

あと、"パーティ"の意味が、本の一番初めの報道記事での扱われ方と、実際に本人が思っていた意味が全く違ったのには、うまいことするなぁと感心しました。そういう意味で言ったんじゃないのにとなることって普段からもあることですが、その言葉の中に込められた真の意味って外側からの情報だけじゃわからなくて、悪意を持って捻じ曲げてしまうこともできてしまうんですよね。絶対的な"意味"はなくて、受け取りてによっていかようにも変容しうる。だからこそ込められた真意をなるべく汲み取ろうとする努力はとても大事。表面上だけ切り取って、中を理解しようとしない、自身の価値観や経験から決めつける行為の傲慢さが身に染みましたし、気をつけたいと思いました。

まとめ

本の解説にもありましたが、この本についてはどう考えても、それってこういう考え方で言えばだめだよね、って作者から刺される気がする恐ろしい本でした。しかも、オチも、個人的にはかなりのやるせない感じで。でも、"正解はなく、想像力を働かせ、対話を続ければ、部分的にでも分かり合える、何かが変わるかもしれない"という、人匙の希望はある気がして、これから、その姿勢を心がけたいなと思いました。

多様性が叫ばれるこの時代に、立ち止まって考えるきっかけをくれる、この本を読めてよかったと思います。